雅楽の歴史
平安時代になると左右の近衛府の官人、殿上人が雅楽の演奏を担うようになり唐楽、高麗楽の作風や音楽理論を基にした国内での作曲が盛んに行われ催馬楽、朗詠、今様などの謡い物も成立しその全盛期を迎えた。 また、平安初期から中期にかけては楽制改革が行われ大陸系の音楽と舞楽の整理統合や国風化、楽器の整備などがなされた。 この時に三韓、渤海など朝鮮系のものは右方の高麗楽として、中国や南アジア系のものは左方の唐楽として統合され、方饗や阮咸など他の楽器で代用できる物や役割の重なる幾つもの楽器が廃止され編成が小規模化されるなどして現代の雅楽に近い形が整い本格的に日本独自の様式として発展していく事になる。
平安時代末期からは地下人の楽家が台頭するようになり、鎌倉時代後期以降はそれまで活動の主体であった殿上人の楽家にかわって雅楽演奏の中核をなすようになる。 この影響で龍笛にかわって地下人の楽器とされていた篳篥が楽曲の主旋律を担当するようになった。
室町時代になると応仁の乱が起こり京都が戦場となったため多くの資料が焼失し楽人は地方へ四散してしまい多くの演目や演奏技法が失われた。 この後しばらくは残った楽所や各楽人に細々と伝承される状態が続いたが、正親町天皇と後陽成天皇が京都に楽人を集めるなどして楽人の補強をはかり徐々に再興へと向かってゆく。
江戸時代に入ると江戸幕府が南都楽所、天王寺楽所、京都方の楽所を中心に禁裏様楽人衆を創設し、雅楽の復興が行われた。 江戸時代の雅楽はこの三方楽所を中心に展開していくこととなり、 雅楽を愛好する大名も増え古曲の復曲が盛んに行われるようになった。
明治時代に入ると、三方楽所や諸所の楽人が東京へ招集され雅楽局(後の宮内省雅楽部)を編成することとなった。 この際に各楽所で伝承されてきた違った節回しや舞の振り付けを統一するなどした。 また、明治選定譜が作成され明治政府は選定曲以外の曲の演奏を禁止したため千曲以上あった楽曲の大半が途絶えたとされている。しかし、江戸時代後期には既に八十曲あまりしか演奏がなされていなかったとの研究もありこの頃まで実際にどの程度伝承されていたかはよくわかっていない。
『ウィキペディア(Wikipedia)』引用
雅楽って一般庶民が楽しめるようなものなんでしょうか。